高校生時代


とても厳しいカトリックの女子高に入学したら、お目当ての「軽音楽部」は存在しませんでしたが、
同じクラスにフォーク・ロック好きがたくさんいたので
放課後はチューリップやかぐや姫などのコピーをして歌っていました。
合唱のアレンジや伴奏譜を書いたり、聖歌の伴奏をしていたので先生受けもよく、
結構厳しい学校の割にはいろいろ楽しんでいました。
この頃は、イギリスのロック、特にプログレ命でした。
3年生になってイギリス留学が決まった時は、まっ先に「'YES'に会える!」と思ったし、
渡航用のスーツケースに洋楽のレコード数十枚を詰め込んであったので、親に呆れられました。
自分でも「私って最低!」と思って飛行機に乗った記憶があります。

イギリスでの生活は、私の人生をカラフルにするきっかけをたくさん作ってくれました。
英語は当たり前のこと、それ以外にも陶芸、ピアノ、ミュージカル、世界のこと、園芸、犬・・・
学んだこと、感じたことを書こうとしたら、何ページあっても足りないくらいです。
けれど、昼間通った高校でも夜間に通った大学のプレスクールでも、英語は出来て当たり前。
そんなところで英語が未熟の自分を認めてもらうのは大変なことでした。
積極的にならないと何も始まらない・・そう感じた私は、集会の時に前へ出ていってピアノを弾きました。
そう、結局私は、忘れようと思っていたピアノに頼ることになったのです。
これは大成功でした。次の日、校長先生がピアノの先生をつけてくださり、
なかなか入れてもらえない聖歌隊にも誘われ、ミュージカルのスターも紹介してくださいました。
友達もわーっとたくさんでき、ミュージカルの舞台裏を知ることができ、
イートン校の聖歌隊と共演し、ピアノレッスンで初めて「音楽の心」を教えて頂くこともできました。

こうして音楽より英語を選んで行ったはずの英国で、
かえって音楽と結びついていくことになってしまったのでした。
けれども、やりたいこと話したいことがあってこそ、英語は活きるもの・・
音楽をやりたかったから英語も上達したし、
音楽を通して有意義な留学生活を送れたと断言できます。


大学時代


東京への憧れが強かったわりには無知で、山手線内=東京だと思っていた私・・
惹かれていた大学は幾つかあったけれど、四谷にキャンパスのあった上智大学に決めました。
「英文学」という柄ではないような気もしたのですが、
他にこれといって勉強したいこともなかったので、
不謹慎にも割といい加減に「英文科」に決めてしまいました。
「とにかく東京!とにかくバンド!」
頭の中は、それだけだったのです。

入学してぐるりと辺りを見回すと、いた!いた!
おしゃれの仕方がいかにもソレ風の女の子・・広島出身のEちゃんです。
早速話しかけてみると大当たり。「原田真二とバンドをやっていた。」というではないか。
すぐに意気投合し、その日から無二の親友となった私達は、
早速、入部勧誘などしていない8号館地下の軽音楽部のドアを開けました。
地獄のドアを開けているような気にさせる、重い鉄の扉でした。
見かけは頑張って派手にしていたけれども、中身は田舎育ちそのものの私達・・・
部員も部室も、案の定、かなり怪し気で緊張しましたが、うれしくて笑いが止まりませんでした。
彼女と私でメンバーを集め、女の子ばかり5人で「ベアトリーチェ」を結成、
ずっとずっと夢だった「バンド」がやっと現実のものとなりました。
御多分にもれず、ハードロックを一通りやった後は、全盛だったクロスオーバーやフュージョン。
高価な楽器を買うためのバイト、勉強、練習と、多忙な生活が始まりました。
その甲斐があり、結成1年ちょっとでEast Westのレディーズ・グランプリを受賞しました。
けれど、スカウトマンが殺到して、メンバーの入れ代わりがだんだん激しくなり、
結局は解散してしまいました。が、本当に充実して楽しい毎日でした。
Eちゃんは勿論、メンバーの面々とは、今でもとても仲良し。
バンドには妙な連帯感が生まれるようです。

それから、同じ大学内で「POPO」を結成。
女の子バンドと違って、音楽的にしっかりしたものを持っていないと相手にされないので、
このバンド結成後は本格的に練習し、作詞・作曲・編曲もやり始めました。
いろいろなコンテストでキーボード賞、作曲賞、バンド賞などを頂くと活動の場も広がりました。
ライブハウスなどにも出演するようになり、学外のバンドとも知り合うチャンスが増えました。
不思議な響きのバンド「人種熱」に参加したことは、特に衝撃的だったので
「この頃から作風が変わったね。」とよく言われます。
「POPO」「人種熱」などのメンバーは、ほとんどがプロになりましたが、
今も昔も、彼らから刺激を受けることが、私の起爆剤になっています。

英文学・・は残念ながら動機が不純だったので、いまひとつ熱中できませんでした。
が、行間を読んだりテーマを見つけたりなど、音楽にも役立つところがあって勉強になったし、
タータンチェックのネクタイがトレードマークのミルワード教授の授業は、
英国や英国人について、いろいろと興味深い話をしてくれたので、大好きでした。
「眠気を誘う」という評判だった先生の雰囲気も、私には「羊」に思えたので好感をもっていたし、
劣等生ではあったけれど、教授も学校も授業もとても気に入っていたので、出席だけはしていました。
後に、そのことに助けられることになろうとは思っていなかったけれど・・・

軽音楽部は、生活破綻者が多いことで有名だったので、「就職は困難」と言われていました。
ミュージシャンの道も考えたけれど、浜松に連れ戻される恐怖があったので、
とりあえず東京に残るために就職活動を開始しました。
面接の度に「軽音楽部ですか?」と言われ、眉をしかめられたのですが、
必ずその後に「その割りには・・」という枕詞付きで、出席率がいいことを褒められました。
アメリカのCMのように、ひどい人と比較して「まし」で合格できたことは、
素直に喜べないところもありましたが、見事、ほぼ全勝。
唯一「女性のレコーディング・ディレクターを採用してもいい。」と言ったポニーキャニオン社に決めました。

そうそう、面接試験の時、バンドや自分の載っている雑誌記事のコピーを配ったみたら、
「アーティストで入りたいの?それともディレクターになりたいの?」と聞かれました。
なので、「音楽を作らせて頂けるのだったら、どちらでもいいです。」と答えたら、
大爆笑されましたが、希望通り、入社後、作・編曲・演奏もさせてもらえることになったので、
人の人生って、ほんの一言で変わっていくんだなぁと思いました。


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